宿場町・枚方
豊臣秀吉は、文禄年間、諸大名に命じて淀川左岸に「文禄堤」を築造しました。枚方から長柄(現大阪市)まで連続して設けられた文禄堤は、大阪平野を氾濫から守る淀川治水のための堤防であるとともに、堤上を人が往来できる街道の役割を持っていました。天正14年(1589)に大坂城を、文禄3年(1594)に伏見城を築城した秀吉は、両者をつなぐ幹線道路としてこの堤を築いたのです。
枚方宿の東見附付近の様子
(『河内名所図会 巻之六』「天川」)
しかし、文禄堤築堤後のわずか5年後の慶長5年(1601)に、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利して覇権を奪い、つづく元和元年(1615)の大坂夏の陣によって大坂城を掌中に納めます。家康は、関ヶ原の戦いの翌年から江戸と京をつなぐ東海道の整備に乗り出しましたが、大坂城の接収後は、文禄堤を東海道の延長部に組み込み、守口・枚方・淀・伏見を宿場に指定しました。「枚方宿」は、東海道全体でいえば、江戸品川から数えて56番目の宿場になりましたが、通常、大坂−京都間は「京街道(大坂街道)」などと呼ばれていました。
「枚方宿」の範囲は、かつての文禄堤上に位置する岡新町村・岡村・三矢村・泥町村の4村で、本陣・問屋場・高札場は三矢村に置かれました。4村は幕府直轄領に属していましたが、宿場としては道中奉行の支配を受け、人馬役の負担が義務づけられました。助郷は周辺28ヵ村にも及びましたが、京街道の宿場は淀川舟運に旅客をとられ、上り方向(京都方面)に通行量の片寄る「片宿」の状況を呈していました。枚方宿は旅籠屋が多いのが特徴で、歓楽街としての賑わいもみせていました


