枚方宿の歴史について
京と難波をつなぐ淀川の中間地点に位置する枚方は、早くから人と物の行きかう交通の要衝として注目されてきました。
淀川からながめた枚方宿の町並み
(『淀川両岸一覧 上り船之部』文久元年刊(1861))
その立地的な利便性から、戦国時代には浄土真宗・順興寺(じゅんこうじ)を中心とした「枚方寺内町」が形成され、本願寺の保護のもと商工業が活発におこなわれました。寺内町に隣接する淀川岸の三矢浜(みつやはま)も、寺内町の流通拠点となる水運の港として、集落が開けていたようです。
枚方寺内町は、元亀元年(1570)に織田信長の焼き討ちにあって衰退したと推測されていますが、その約30年後の文禄年間には、豊臣秀吉によって治水のための堤防と街道の役割を兼ね備えた「文禄堤(ぶんろくつつみ)」が淀川左岸に築堤され、そのルートにあたる枚方は陸路の中継地としても活気を取り戻しました。
→寺内町・枚方の詳細
さらに、江戸時代に徳川政権が樹立されると、文禄堤は東海道の延長部に組み込まれ、京と大坂を結ぶ京街道(大坂街道)として整備されました。枚方は大坂から2番目の宿場に指定され、江戸時代以前から港として開けていた三矢村に本陣や問屋場(といやば)が置かれ、宿場の中心になりました。
→宿場町・枚方の詳細
また、淀川開発が進んだ江戸時代には、舟運の支配機構・制度も整えられ、三矢村近辺には浜問屋・船番所が置かれました。「三十石船(さんじっこくぶね)」と呼ばれる乗合船の乗船場を控えた旅籠(船待ち宿)が登場し、煮売茶船(くらわんか舟)の商いが名物になるなど、枚方は都市間をつなぐ水陸交通の中継地として、おおいに賑わったのです。
→港町・枚方の詳細


