別棟展示室1
江戸時代の枚方は、東海道(京街道)の宿場町、淀川舟運の中継港として発展し、街道筋には多くの旅籠や煮売屋が軒を連ねていました。
鍵屋もこのような旅籠の一つでしたが、幕末頃には淀川の船待ちを兼ねて賑わい、明治・大正時代には枚方きっての高級料理旅館として社交の場に利用されてきました。鍵屋では創業を天正年間と伝えていましたが、文献史料のうえでは安永2年(1773)の古文書に「鍵屋太兵衛」の名がみえるのが初出です。以降、鍵屋の当主は代々「太兵衛」を名乗ったようです。当初は「餅屋」として登場し、文政年間には「商人宿」を営んでいた太兵衛ですが、次第に繁盛し、幕末頃には相当の格式を備えた旅籠に成長しました。
展示室では、鍵屋太兵衛の名がはじめて登場する古文書(複製)や、火鉢やマリア観音像など鍵屋旧蔵の調度品、蒸気船の請求書や淀川遊覧船の案内書など、近代の鍵屋の活躍をしのぶことができる資料を展示しています。
田能村直入は、豊後竹田(現大分県竹田市)出身の南画家。田能村竹田の弟子。京都府画学校の初代摂理となり、京都画壇の発展に貢献した人であるが、旅を好み、各地を遊歴した。
本図は、明治7年(1874)6月に直入が枚方を訪れた際、旧枚方宿三矢村の旧家の主人に請われて描いたもの。併題の「嘱目」とは、俳諧で目前のものを即興で読むことを示し、枚方の河岸風景をさらりと描いた図。
安永2年(1773)6月23日
柱本(現高槻市)の煮売茶船仲間文書のうち、「くらわんか舟」の名で知られる茶船の株仲間と、枚方の餅屋衆の間に起きた訴訟の関係文書で、「鍵屋太兵衛」の初出史料。
茶船仲間から商いの妨げになるとして訴えられた「餅屋」の鍵屋太兵衛は、60年以前から淀川を往来する船に餅などを商ってきたと申告しており、1700年代初頭には「鍵屋」が船客相手の商いをはじめていたことがうかがえる。
台座部分に「天正年間銘」と入っているが、後年のもの。
鍵屋では創業を天正年間と伝えており、そのことを裏付けるために、後世にこの火鉢を特注したと思われる。
現在鍵屋のある堤町は17世紀後半の新開地であり、天正年間創業が事実であれば、他から移転してきたことになるが、事実のほどは不明。


